今考えれば、たった10分間のバスの中でも電車の中でも、食事中も透明なテーブルクロスの下に暗記事項のメモを入れて、まさに四六時中受験勉強をしていた。
どうしても入りたい大学があるわけでもなくて、ただ勉強しないと中学時代のように希望校に入れない、精神病などで急に受験勉強ができなくなるかもしれないからともかくできるときにやっておかないといけない、そういうネガティブな動機付けによるものだった。
勉強することは私にとって現実から逃げることであったのだと今は思う。
勉強をしていれば、褒められることはあっても怒られることはなかった。
夜遅くまで起きて勉強しているから、朝、母親に起こしてもらうのは当たり前だったし、家の手伝いだってやらなくて良かった。
テレビゲームを10時間もしていたら怒られるけれど、勉強なら何時間しても怒られない。
勉強によってやりたくないことから逃れていて、それは当然のことだと思っていた。
勉強をすることで人とのコミュニケーションからも避けていた。
人と接するのが上手く行かなくて自分が傷つくのが嫌で、なるべくクラスメイトなんかとも接触しないようにしていて、休み時間も勉強するか本を読むかしていた。
昼ご飯の時間も、委員会室でごはんを食べていた1、2年生のころはともかく、3年生のころはひとりで食べていて、見かねた優しいグループが誘ってくれてしばらく一緒に食べていたのにそれもいつのまにかやめて、さっさとひとりでごはんを食べて昼休みの残り時間は自習室へ行くようになっていた。
自習室でできた友だちもいたから、完全にコミュニケーションが出来ないというわけではなかったのだろうが、それにしても勉強を口実にあらゆる面倒だと思われることを回避しようとしていた。
高校3年生の文化祭のときも食堂で勉強していた記憶があり、それは受験が近かったからであるけれど、もしかしたら誰かに一緒にまわろうってことを言う勇気がなくて、とりあえず勉強していたのかもしれない。
高校時代に後悔しているのは、勉強を理由に本当に入りたい部活に入れなかったこととか、友だちと遊びに行けなかったこととか、そういういわゆる文字通りの「充実した高校生活」を送れなかったことよりも、勉強を嫌なことや面倒なことから逃げるために使ってしまったことだった。
そしてその勉強というものは今、自分を助けてくれるものだからこそなおさら、もっとポジティブなものとして自分の中に位置づけられたら本当に良かったのになあと思う。
そしてその勉強というものは今、自分を助けてくれるものだからこそなおさら、もっとポジティブなものとして自分の中に位置づけられたら本当に良かったのになあと思う。