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3/27/2014

執着とは愛することであり憎むこと

恋人とは別れることにした。
好きでも嫌いでもない人とはやっぱり付き合えない。
別れたら私はめちゃくちゃになってしまうのではないかと思っていたがそんなことはなく、驚くくらい何とも思わない。
ずっと会えなくなるということを惜しいと思えなくて、だからやはり別れることにして良かったと思う。
この先誰にも恋せず、結婚できなかったら今のことを後悔するのだろうと思うけれど致し方ない。
だって本当に、好きだという気持ちを持てないのだから。

3/24/2014

心が羽みたい

私を愛してくれる恋人と別れることに決めたのに、全然悲しくもなく、悔しくもない私は薄情なのだろうか。
自分が心変わりしたことを寂しくは思うけれど、それは好きだった本や何かを嫌いになってしまうこと、その事柄自体を寂しく思うのと同じことだから、恋人との別れを寂しく思っているのとは違う。

これからずっと会えなくてもいいし、たぶん会ったとしてもそんなに気まずくはない。
お互いに好きだったはずなのに、それだけのつながりだったのだと思うと、それもまた寂しい。

私にとって彼は、たまに会って懐かしむのにはちょうど良いかもしれないけれど、恋人としてずっとつながっていることには耐えられない人だったのかもしれない。

このところ、いつもいつも、朝、歩きながら恋人といてもあまり楽しくも安心もしなくなってしまったことについて考えていた。
だからそれがなくなったおかげで心が軽くて良い気分だ。

3/17/2014

プレーンでフラットな恋人

恋人と1ヶ月ぶりに会った。
それまでは週に1度くらいのペースで会っていたのに、彼の仕事の都合でなかなか平日に会えなくなってからはずっと会っていなかった。

趣味が合わないっていうだけでなく、彼には特別に好きなものがあんまりないんだなって思った。
たぶん、ただ心穏やかに暮らせればいいんだと思う。
それが普通、世間一般の人で、私の身の回りには自分自身も含めてなにかに執着する人が多いだけなのかもしれない。
それでも私はそういう「執着」が好きなのに、彼は全然そういうのがなくて、はっきり言って話すことがないしつまらない。
話すことがないって珍しいことで、別に楽しくないから一緒に時間を共有するのが面白くない。
楽しくもないけれど苦痛っていうわけでもない。

別れたくないかもしれないという気持ちはある。
私を愛してくれているんだなあというのはとても感じるし、私が好きなものを好きになろうとしてくれているんだろうなというのもわかる。
私が求めているのは、私が好きなものを同じように好きになってくれる人じゃなくて、趣味があってベースに共通のものがあって、それで楽しい話ができて、お互いの知らないものを知ってより楽しいなって思える人だけれど、それが恋人である必要はなくて、友人のなかにはそういう人が何人かいるのだからそういうことができる人を恋人に持つことなんてないってわかっているけれど。

それから、私が心を開けるというのは特別なことなのかもしれないなとも思う。
でもそれで、心を開いてなんでもかんでも言ってしまうし、それで私は自分がとてもわがままでクズみたいな人間なんだって実感する。
今まで、自分自身は「わがまま」や「クズ」ということばとは無縁だと思いこんでいたのに。

今の私の心は車のギアでいうところのニュートラルの位置にあって、好きだと思えば好きだし、嫌いだと思えば嫌いだ。
少しでも別れたくないって思うなら別れない方がもちろん良いのだと思うけれど、別れたいとも思うし、率直に言えば、傷つけたいとも思っている。

一方で私は、自分の孤独が共有されそうになったらその人を嫌いになるのかもしれないから、このくらい執着がない人と付き合うのが合っているのかもしれないとも思う。
求めているものを手に入れようとして、それが実際に手に入ったら手放したくなって、一生ひとりなのかもしれなくて、だから私は自分が孤独だっていうことを認識して「地獄の水」を飲むようなことばかりしていてはいけない。

ともかくもう自分からメールするのはやめる。
こんなところで宣言しないといけないのは、やっぱり別れたくないのかもしれないけれど。

私はまだ子どもだから、極彩色の世界でめちゃくちゃに暴れ続けることに憧れている。

3/11/2014

付き合うより別れる方が難しいと知って大人になった

恋人と別れるかどうか迷っている。

私の今の恋人は私と正反対で、高所恐怖症で、辛いものが食べられなくて、保守的で、率直に言って刺激がない。
言っていることはいつも正論で、ソフトなタイプの自己啓発書みたいにきれいだと思う。
それは安心できるとも言えるのかもしれないし、結婚するなら最高なタイプだと思うけれど、それでも私は自分の友人と遊んだときのような突き抜けるような昂揚感を求めてしまう。
刺激がほしいなんて本当に子どもみたいだけれど。

話し方、ことばの選び方もちょっと嫌だなと感じる。
それは恋人だから意識しすぎてしまうのかもしれないけれど。
一人称が私の前では「自分」っていうのも気に入らない。
今まで本当に好きになった人たちはその話し方や声がぞくぞくするくらい好みで、思い返すだけで興奮するのに。

趣味だってかすりもしない。
私は好きなものを愛することでできているのに、私の恋人にはあまり好きなものがないみたい。
プレーンっていうことばが一番よく似合う。
私は好きな人の好きなものを好きになるのが得意だし、それもまた私の好きなことだけれど、それほど愛しているものはないようだからつまらない。

でもたぶん別れたら後悔すると思うし、べつにほかに好きなひとがいるっていうわけでもない。
でもでも、迷うくらいならこのまま付き合っていても相手に失礼だし、いずれは別れることになるんだから早く別れた方が良いのだろう、とも思う。

最初は本当に好きだった。
ちょうど恋人がほしいと思った頃にふたりきりで会うようになって、だからとりあえず付き合ったのだと思うようになるときが来るとしたらそれは間違いだ。
本当に好きで、でもどうしたらいいか分からなくて友人に相談したりして、上手くいって付き合うようになって、そのときは私たちふたりが恋人じゃなかったら世の中の全てが嘘だよねって思ったのに。
今だって恋人のことを傷つけたいなんて思っていない。
挫折を味わわせたいとは思ってしまうことがあるけれど。

こうやって恋人の嫌なところを書き記すことだってあんまり良くないことで、それは私の恋人が言いそうなこと。
でも誰にも言えないし、いつもいつも、朝2km歩いている間じゅう、こういうことを考えているもの辛い。

3/04/2014

「別れようと思ったこと、あるの」

死にたいと思ったことあるって聞くのと同じくらいのカジュアルさで私と別れようと思ったことあるって聞きたくなっちゃうし、それを聞いてどうするの、私は別れようと思ったことあるよ、どうして、って考えてどうにもならないから自分を嫌う。

ことばに興味がない人はつまらないし、ことばに執着する人はことばへの思いと同じくらい自意識が強いし。

2/18/2014

相手への気持ち

恋人が言っていたように、自分が誰かに対して抱いている気持ちはその人が自分へ抱いている気持ちと同じであるとしたら、恋人は私から気持ちが離れ、私を心底つまらないと思いつつあって迷っている。
そして恋人はいつもおおよそ正しい。

元カレの名前

以前、職場の人が「元カレの名前なんか忘れるけど、教え子のことはわりと覚えている。」と言ったのを聞いて、さすがにそれはないと思ったのだけど、高校のときすごく好きだったクラスメイトの名前をどう頑張っても苗字しか思い出せなくて、そういうこともあるかもしれないなと思っている。

2/11/2014

生きている実感 幸せの実感

恋人に会うと幸せになる。
それは急速な幸福感ではなくて、あーしあわせだ、わたしは、って実感できるような緩やかな幸せで不思議だ。

趣味もそんなに合わないし、恋人の話し方とか語彙とか、率直に言ってそんなに好きじゃないし、特別恋人に話したいっていうこともあまりないし、つまらないことばかり言ってしまうし、それなのに何だか好きだ。
こういうのは別れたくなったときに目につくところになってしまうのだろうけれど。

つまらないことや自分が嫌だなと思うことを言ってしまったり愛想良くできなかったりするのは、あんまり安心しきってしまっている証拠かもしれない。

そこにあるのが当たり前の幸せになってしまっていて、見捨てられることの恐ろしさを忘れてしまい傲慢に振る舞いがちだけど、それに気づく今の心を本人の前でも発揮できるようになりたい。

趣味が合わなくても普通に話が通じるというのは実は意外と難しいことだし(大学を出ていろいろな生活環境の人に出会うことでそれに気づく)、精神が不安定で本当は内省的な私に優しくしてくれて、大切だと思ってくれる人たちは本当に得がたくて、素晴らしい今だということを忘れないでいたい。

1/02/2014

男女を愛すること

異性を愛する自分と同性を愛する自分は、教職に就いている自分とそうでない自分のようにまさしく対称的であることに気づいた。
以前は、異性にも同性にも"同様に"恋してしまうのが自分であると思っていた。

別の言い方をすれば、私にとっての異性愛は理性で、同性愛は感情である。
私は絶対に子どもを産み育てたいから、同性である女性と一生お付き合いすることはできなくて、自分の年齢を鑑みてももう遊びで交際する猶予はないから、結婚を含めた社会的な秩序のもとで私は男性とお付き合しないと自分の望みが叶わない。
そして、そういう、結婚などを含めた理性的な(悪く言えば打算的な、でも愛し合うことの究極の形が結婚というわけではなくて、結婚には多かれ少なかれ打算が必要だから仕方のないこと)「恋愛」がいけないとか、美しくないとか、そんなことを言いたいわけでは全くない。

一方、同性愛に関して言えば、恋人の女性になら首絞められたい(決して死にたいわけではない)と思っているけれど、そういうのも感情や嗜好という理性や社会性の反対にあるものだと思う。
もちろん、マゾヒスティックな欲望を満たすために女性とお付き合いしたいわけではないし、男性によっては満たされない様々な種類の欲求を満たすことができるとも思っている。
それを打算的だと呼ぶ人もあるかもしれない。
また女性と交際する場合にとても良いと思うのは、例えば「プロポーズは男性から」「男性が後ろから抱きしめるのはアリだけどその逆はない」というような世間一般のいわゆる「恋愛のルール」に縛られる必要がないことで、私は別に異性と交際するにあたってもそれをうっとうしいと思っているわけではないけれど、自分のしていることがルールに則っているのかどうかくらいは気にしていて、それはあまりにも優等生らしくて気詰まりだとたびたび感じる。

さて話は最初に戻って、多分に良識が求められる教職と、そうでない無職あるいは別の仕事、社会的、世間的にはそうであるそれらの属性のうち、前者は誉められ、後者は排除される。
でも私にとってはたやすく相互に入れ替わるものである。

2/14/2013

バレンタインデーの贈り物は手作りすべきか否か

結局、今年もだれにもチョコレート渡せなかったから、日頃から思っていることを言いますけど、バレンタインデーにチョコを買う女の子の方が"お買い得"だと思う。

なぜなら、ああいうデパ地下の綺麗なチョコを買えるのはこのバレンタインデーの期間だけで、いつでも買えるわけではない。
一方、手作りチョコに関して言えば、そんなの作ろうと思えばいつでも作れるんだし、手作りのものなんかいつでも渡せる。
つまり、チョコを買う女はお菓子が作れる女で、チョコを作る女はこの時期にだけお菓子作りをする女だということである。
あと、手作りだったらある程度何でも良いか、得意なもので良いかと思えるし、コストもかからないのだけれど、ちょっと良いチョコを買うとなると選ぶのにめちゃくちゃ時間がかかるんだよね。
私が優柔不断でセンスに自信がないからかもしれないけれど。

たしかに、手作りのものをもらったら嬉しいかもしれないけれど、それなら普段から手作りの何かをあげましょうよと言いたい。
手作りならチョコにこだわらなくても良いじゃない。

誰にも渡してないって書いたけど、父親には六花亭のチョコレート渡したんだった。

失恋のショックから寝込んでいるわけですが

結構面白いことがあって誰かに話したいと思ったときに、一番そのことに興味を持ってくれそうな人が思い浮かんで、でもその人はもう会うこともないし、連絡も取ってくれるなと言われたんだった、と気づいて不意に悲しくなるときの絶望感は耐えがたい。


2/04/2013

恋と人生

「Love Is Blind」の"Love"を"Life"に変えても意味が通じる、私にはしっくりくる、と椎名林檎が「下克上エクスタシー」のDVDの中で言っていた。
恋こそが人生ということなのか、恋のみならず人生もまた盲目ということなのか。

2/25/2012

私を採用しなかったら

私を採用しなかったら会社は大損するぞ!っていう気持ちで選考に臨めっていうのはよく言われる。
かなり強気だけれど、そう考えるのは、私にとってはそんなに難しくない。

でも、私と付き合わなかったら大損するよ!って思えるほどの自信はない。
だから、難しい。

用意した義理チョコすら渡せなかった私に愛の手を!