1/23/2014

コメントシートのメリット・デメリット

授業ごとにコメントのシートを書かせ、回収し て自分もコメントを返すようにして良かった点

・自分が生徒の名前をすぐに覚えられる。

・平常点がつけやすい。

・継続的に正しい質問を提示してゆけば書く力が身につく。

・それぞれがどのような意見を持っているのか がよくわかる。

・意見はあってもそれを書く力がないというこ とに気づける。

・ただノートを取るだけの授業になりづらい。

・余裕を持って授業ができる。(時間がなければコメントを書く時間をカットすれば良いから。)



良くない点

・チェックに時間がかかる。

・有意義でない質問の場合、授業の時間もチェックの時間も無駄になる。

1/16/2014

口内炎は自分の心身である証

口内炎が口の中に10個くらいできて日常生活に支障をきたす。
歯茎、唇の裏、舌先全体が痛くてたまらず、何もしなくても痛い。

思い当たることはなかったのだけど、Twitterを見返してよくよく考えてみると、年末あたりから何となく憂鬱な日はあったけど、1月12日くらいから憂鬱感が際立ってきていた。
それでも13日の午前中、仕事をしているときはなんともなかった。
13日は半日の仕事を終えて帰って来たら家族に腹が立って目の前が真っ暗になってどうしようもなくなったので、恋人と会う大切な約束をお断りして夜まで昏々と眠った。
それからだいぶ気持ちも晴れてきたのだけど、まさに口内炎が爆発したのはその翌日だった。

結局、鬱大爆発の理由は分からないけれど、心身が連携しているというのは悪くないことだと思う。

1/12/2014

うさぎスマッシュ展 東京都現代美術館

・動物を人工透析や人工肺として利用する装置

「実際にあったらヤバい」というのをまず初めに思った。
しかし、どうしてそれがいけないことなのだろうかとも思う。
動物が医療のための実験に使われること、薬の原材料とされることには抵抗がないのに、どうして直接の道具にするのはダメなのだろう。

・一人ずつしか入れない部屋
一緒に行った人はただ天井が映っているとしか思っていなかったそう。
見えるはずの当たり前の世界が歪むということ、それは私にとってとてもわくわくすることだったのだけれど、そういうことを共有できないのは少し寂しいようにも思う。


・女の人の顔がついた丸太にうさぎが腰かけている

・スプツニ子!さんの月にハイヒールの足跡を付ける作品

・東京のにおいを採集

・交差する鏡の庭

・放水車のダンス

恋人へ送信されなかったメールとそのほか

そんなに疲れてはいないはずだったのに、相変わらず帰ってきていつのまにか眠ってしまった。
早くリズムを取り戻さないと、と思う。

最近、なんとなく睡眠不足でネガティブな気持ちで、あらゆる人を嫌いになりそうで余計に悲しい。

自分がいわゆる「メンヘラ体質」であるということを恋人に打ち明けて良いのか、それは自然と悟ってもらえば良いだけのことなのではないかと悩む。
そして6月頃の鬱病のせいで慢性的に軽い憂鬱感に襲われてどうしようもなくなるようになってしまったのではないか、あるいは自分がただ甘いだけなのではないか、もうどうした良いのか分からない。

そして精神的な病にかかりやすい自分を理解してもらえないなら、そのせいでならフラれても良いと思っているということに対しても嫌だと思う。

私の身の回りには精神を病んでいる人が極端に多く、自分自身はそうではないから、精神を病んでいる人を引き付けやすいたちなのだと思っていた。
でもそれは違っていて、ただ私に精神的に病んでしまいやすい部分があり、そこを敏感に察知して引き付けられてしまう人たちがいるのだと気づいてしまった。
この思考ですらもただネガティブがこじつけであることには気づいているのだけれど。

孤立感

他者から愛されていると感じ、相手が私のことを理解している、お互いに分かり合えると強く思っていれば思っているほど私は孤立感にとらわれる。

1/03/2014

可視的ラッキーガール

初詣のおみくじで大吉を引いた。
もちろん大吉というだけでも嬉しいのだけれど、何が出ると思うか尋ねられ、私は大吉と答え、それで本当に大吉だったことが嬉しい。
我ながら、なんと言うべきか、男前だと思う。
おみくじなんてどうでも良いと思ってなぜか必要以上に冷めてしまうのだけれど、今日は思いのほか嬉しい気持ちになった。
ちなみに一緒に行った人は吉だった。

昨年の11月に同じ人と浅草寺へ行った。
おみくじが辛口なことで有名な浅草寺でも、私は大吉で一緒に行った人は半吉だった。
その人の前でまたラッキーガールぶりを発揮できたこともとても嬉しい。
自分自身は本当に運が良いと思っていて、それは別におみくじとか福引きで良いものが引けるという意味ではなく、人生のここぞというときにとてもついているということなのだけれど、ともかくそれを証明するのは難しいので、おみくじによって可視化できたのはとても良いことだと思う。

そして良くも悪くも波のあるのが私が大吉で、いつも着々と平坦の一緒に行った人が吉というのも私たちらしくてとても良い。

これはとっても幸せな気持ちになれる、額に入れて飾っておきたいエピソードだと思っている。

1/02/2014

男女を愛すること

異性を愛する自分と同性を愛する自分は、教職に就いている自分とそうでない自分のようにまさしく対称的であることに気づいた。
以前は、異性にも同性にも"同様に"恋してしまうのが自分であると思っていた。

別の言い方をすれば、私にとっての異性愛は理性で、同性愛は感情である。
私は絶対に子どもを産み育てたいから、同性である女性と一生お付き合いすることはできなくて、自分の年齢を鑑みてももう遊びで交際する猶予はないから、結婚を含めた社会的な秩序のもとで私は男性とお付き合しないと自分の望みが叶わない。
そして、そういう、結婚などを含めた理性的な(悪く言えば打算的な、でも愛し合うことの究極の形が結婚というわけではなくて、結婚には多かれ少なかれ打算が必要だから仕方のないこと)「恋愛」がいけないとか、美しくないとか、そんなことを言いたいわけでは全くない。

一方、同性愛に関して言えば、恋人の女性になら首絞められたい(決して死にたいわけではない)と思っているけれど、そういうのも感情や嗜好という理性や社会性の反対にあるものだと思う。
もちろん、マゾヒスティックな欲望を満たすために女性とお付き合いしたいわけではないし、男性によっては満たされない様々な種類の欲求を満たすことができるとも思っている。
それを打算的だと呼ぶ人もあるかもしれない。
また女性と交際する場合にとても良いと思うのは、例えば「プロポーズは男性から」「男性が後ろから抱きしめるのはアリだけどその逆はない」というような世間一般のいわゆる「恋愛のルール」に縛られる必要がないことで、私は別に異性と交際するにあたってもそれをうっとうしいと思っているわけではないけれど、自分のしていることがルールに則っているのかどうかくらいは気にしていて、それはあまりにも優等生らしくて気詰まりだとたびたび感じる。

さて話は最初に戻って、多分に良識が求められる教職と、そうでない無職あるいは別の仕事、社会的、世間的にはそうであるそれらの属性のうち、前者は誉められ、後者は排除される。
でも私にとってはたやすく相互に入れ替わるものである。