11/27/2010

タイムマシンはなくても

明治時代に出版された医学の本を見ると、「特効薬はなく、対症療法を取る」というようなことが書いてある病気でも、現代の、たとえば、『家庭の医学』で同じ病気の項を見てみると、「治療にはナントカヤクとカントカヤクを用いる」と書いてある。
100年の間にあった薬の開発に思いを馳せて、すごくドキドキする。

科学の進歩とか開発とか、もうそんなにやらなくても良いのに、と悪者扱いしている感じがあったけれど、なんだかんだ言っても、科学や人の力は素晴らしい。
科学的根拠があるから何でも信じる、なければ信じない、科学教みたいなことではなく、純粋に、科学ってすごいと思う。

11/26/2010

えせアクティブ大学生

大学生のうちにいろいろなことに挑戦するのは有意義だと思う。
実際にたくさんの企画などに参加したり、新しいことを始めたりしている人は多い。
でも中には、何かを実践することそれ自体ではなく、「~をやりました」という肩書をたくさん持つことが目的なのではないかと思うような人もいる。
それでは結局、何にも身に付かないし、大して誰かの役に立つことはできない。
とりあえず交流会にたくさん参加して、「ケータイに登録されているメールアドレスの数は増えました」で終わっているのに、自分は強力で幅広い人脈があり、多くの企画に参加するようなアクティブな人間であると勘違いしている人も少なくないのではないかと思う。

その点、私の友人の一人は、たしかにいろいろなことをやったり、交流会などにも参加したりしている。
しかし、ただそういった活動をしているわけではなく、ライフワークとなるような明確な目的があって、どうすればそれを実現できるかを考え、その過程でいろいろなことに加わることになっているように思える。
そこが凡人とは違うところであり、私が彼女を尊敬したいと思うゆえんである。

何もしないよりは活動的である方が良いというのも一理ある。
様々なことに挑戦する中で、自分の本当にやりたいことを見つけることもできる。
いろいろなことをする中で、方向性を決めるのは良いと思うけれど、いろいろなことをやっていること、それだけで満足する人間にはなりたくない。
目的もなく、ただやみくもに行動して、何となく自分で自分のことを「デキる」人間であると見誤るよりも、いったん落ち着いて考える時間を取ることの方が重要であるときもあると思う。
そして、目的を持って一直線に進めることは、とても幸せなことであると思う。

11/22/2010

目を見開いていても

ファン以外の多くの人からはそんなに大したことがないと思われているような歌手でも、ライブでは観客を煽動できる。
その歌手が手を挙げて左右に振るしぐさをすれば観客も同じようにし、バラードを歌えば、それまで騒いでいた観客を静めることができる。

それを考えると、ヒトラーがドイツ国民、そして世界を動かしたのもうなずける。
ヒトラーの演説の動画を見ると、あの大げさなくらいの言い方や身振り手振りは、その場にいた人へのとてつもない影響力を持っていたのだろうと感じさせられる。
単に世界中がアホだったり狂っていたりしたわけではないのだと思う。

きっと、よっぽど注意していないと、すぐに、知らず知らずのうちに、頭の良い人の言うとおりの行動を取ることになる。

11/15/2010

BONNIE PINK 「フラレラ」

BONNIE PINKの曲をもとにした佐藤江梨子主演のオムニバス映像作品の「フラレラ」を映画館で見てきた。
インターネット配信では見られない回があったし、BONNIE PINKの曲を映画館で聴けるだけで幸せ。

□全体□

サトエリが美人で、スタイルが良くて、足が細くて、要するに美しかった。

全体的に、場面が大きく変わるような場面は少なく、そういうセットの点では凝った作りではなかったけれど、構成は工夫されていて面白かった。


11/07/2010

言葉を定義するということ

「宇多田ヒカルの作詞は純文学だ」という話を聞いて、「純文学の定義って何だろう」と考えた。
宇多田ヒカルの作った曲の歌詞は本当に純文学なのか、そもそも純文学の作品とは何を指すのだろう、そのようなことを考えて、語義ありきで言葉が存在するわけではないことに、はっと気づいた。

言葉というのはもともと語義が与えられていてそこに具体的な事物を当てはめているわけではない。
辞書に載せられている語義は、人々がある言葉を使っている具体例を集めて、そこから共通項を抽出して書かれたものである。
ある言葉に絶対の定義を与えるなら、すべての用例を抽出して、それを分析しなければならないと思う。
ただ、共通項を探す段階で既に個々の考え方の違いが介入してしまうことを考えれば、語義も一つの解釈であるといえるかもしれず、どんなことをしようとも「絶対の定義」を与えるのは不可能なのかもしれない。

高校までの学校教育でも、辞書で語義を調べて、その語義を覚えることが求められていた。
たしかに、言葉の意味を覚えないことには、自分の語彙にない言葉で書かれた文章を読むことが難しい。
それでも、様々な文章の中で知らなかった言葉に何度も出会い、その言葉が文章の中でどのように用いられることを感じることで、言葉を覚えてゆくのが理想である。
実際、幼児は辞書を引いて語義を覚えるわけではなく、日常の中で同じ言葉に何度も触れることでその使い方を習得している。
なるべくなら、幼児が言葉を覚えるときと同じように、実際に使われている言葉に接することで、語彙を増やしてゆきたい。

情報が言葉を決めるのではなく、言葉を使う人がどう言葉を用いるかによって、言葉がどのようなものであるかは決められるのであると思う。

11/03/2010

「田園に死す」

「田園に死す」の映画を見た。
友達に「寺山修司って何の人?」と聞いたら、真顔で驚かれたというのもあって、見るなら今だと思った。

サーカスというものだけでも、あからさまにいかがわしい上に、人々の衣装や小道具一つ一つが不可解さを高める。
はじめに目を惹くのが化粧で、顔を白く塗っている人とそうでない人、真っ赤な口紅を差しているときとそうでないときなど、もしかしたら何か意味があるのかもしれない。
ひな壇が川を流れてくる場面はさすがに笑いそうだった。

椎名林檎の「迷彩」のPVは「田園に死す」へのオマージュだという話を聞いたことがあったから、そんな感じなのだろうと思っていた。
「迷彩」のPVは椎名林檎の怖いPVナンバー1だと感じていたけれど(それでも好きだ)、実際に「田園に死す」を見て改めて比べてみると、怖いというほど怖くも不気味なPVでもなかった。
そして「迷彩」のPVは洗練されていて、不気味さも抑えられているものだったのだと気付いた。