11/09/2014

勉強は逃げである

高校時代、勉強ばかりしていた。
今考えれば、たった10分間のバスの中でも電車の中でも、食事中も透明なテーブルクロスの下に暗記事項のメモを入れて、まさに四六時中受験勉強をしていた。
どうしても入りたい大学があるわけでもなくて、ただ勉強しないと中学時代のように希望校に入れない、精神病などで急に受験勉強ができなくなるかもしれないからともかくできるときにやっておかないといけない、そういうネガティブな動機付けによるものだった。

勉強することは私にとって現実から逃げることであったのだと今は思う。
勉強をしていれば、褒められることはあっても怒られることはなかった。
夜遅くまで起きて勉強しているから、朝、母親に起こしてもらうのは当たり前だったし、家の手伝いだってやらなくて良かった。
テレビゲームを10時間もしていたら怒られるけれど、勉強なら何時間しても怒られない。
勉強によってやりたくないことから逃れていて、それは当然のことだと思っていた。

勉強をすることで人とのコミュニケーションからも避けていた。
人と接するのが上手く行かなくて自分が傷つくのが嫌で、なるべくクラスメイトなんかとも接触しないようにしていて、休み時間も勉強するか本を読むかしていた。
昼ご飯の時間も、委員会室でごはんを食べていた1、2年生のころはともかく、3年生のころはひとりで食べていて、見かねた優しいグループが誘ってくれてしばらく一緒に食べていたのにそれもいつのまにかやめて、さっさとひとりでごはんを食べて昼休みの残り時間は自習室へ行くようになっていた。
自習室でできた友だちもいたから、完全にコミュニケーションが出来ないというわけではなかったのだろうが、それにしても勉強を口実にあらゆる面倒だと思われることを回避しようとしていた。
高校3年生の文化祭のときも食堂で勉強していた記憶があり、それは受験が近かったからであるけれど、もしかしたら誰かに一緒にまわろうってことを言う勇気がなくて、とりあえず勉強していたのかもしれない。

高校時代に後悔しているのは、勉強を理由に本当に入りたい部活に入れなかったこととか、友だちと遊びに行けなかったこととか、そういういわゆる文字通りの「充実した高校生活」を送れなかったことよりも、勉強を嫌なことや面倒なことから逃げるために使ってしまったことだった。
そしてその勉強というものは今、自分を助けてくれるものだからこそなおさら、もっとポジティブなものとして自分の中に位置づけられたら本当に良かったのになあと思う。

10/13/2014

真面目な大人の小論文指導

大学生のときに、論理的な文章の書き方についてのオンデマンド講義を受けていた。
1年生の前期前半に受けたその講義で習ったことはとても役に立っていて、あれがなかったら大学生活の中で書いたレポートは全体的に評価が下がっていただろうと思う。
講義各回で一つずつ文章の書き方を学び、それを使って文章を書いて、「ライティング・センター」という学内の施設で訓練を受けた大学院生に添削してもらうという授業だった。
必ずしも全ての文章が型どおりに書けていれば良いというわけではないが、意味の通る文章が書けない人も少なからずおり、そういう人のためにも、せめて高校の段階で書き方の勉強ができれば良いのにと思う。

小論文を書くことは文章を書くだけでなく、漢字を正しく書いたり、語句を実際の文章の中で使ったりする勉強にもなるし、物事について深く考え、自分自身を見つめ直すことにもなる。
さらに、小論文を書くためにアンテナを張ることにも繋がるし、それによって自分の好きなことを見つけることもできると思う。

私が指導していた生徒は、添削を繰り返しているうちに1ヶ月弱で小論文を書く力が大きく伸びた。
それは入試が近いという焦りと本人のやる気、集中力があったこそのことではあるが、それでも、私の予想以上の進歩だった。
小論文の勉強をしなければその生徒はきっとこの先もずっと上手く自分の考えを伝えられない文章を書くことになっていたのだろうと思うし、そのような生徒はたくさんいるのだろうなあと思う。
もし私が現代文を担当することになって、自由にカリキュラムを組めるのであれば、なるべく書くための授業をしたいし、進学補習なんかではきっとこの先、小論文の授業をすることがあるだろうから、今のうちに良い指導方法を考えておきたい。

10/02/2014

子どもがほしい

子どもがほしいなあと切に思う。
3人くらいほしい。
そう思うのはおそらく、自分が顧問をしている部活動の生徒のことが本当に好きで、そういう子たちが頑張っているのを見るにつけてもわくわくして、胸が熱くなるってこういうことなんだと思えるからだ。

ただ、もし子どもができてもあまり過保護に育てたくはないし、ついつい目をかけすぎてしまいそうだから気をつけなければと思う。
あとは私の思い通りにならなくても、自然に任せること。

子どもには一生懸命頑張ることの大切さは教えたい。
それから同性からはもちろん、異性にも好かれるようにしなさいと言いたい。

男子も女子も本当に愛しているっていうことを口には出さないで伝えたい。
あなたからこんなに元気をもらっている人がいるんだということに気づいてもらいたい。

思考の限度 想像の限度

人は、自分の知っている範囲内でしかものを考えたり想像したりすることができない。

10/01/2014

進路で悩んでいた自分と今の高校生と

今の仕事で担当している分掌が進路なのは本当に良かったと思う。

現在の勤務校は教育困難校で、自分が高校生だったころには想像できないような生徒の無気力さ、諦め、授業中のうるささ、そういうものがもううんざりで、可もなく不可もなく仕事をこなしていれば良いし、別に誰からも文句を言われることもないし、仕事は仕事と割り切っていればいいんだと考えることが多かった。
現に、今もそう思うことは少なからずある。
そもそも教員というのは私にとってとても就きやすい職業で、だから教員をすることにしたのだ。
スタンスとしては「ほかの仕事をしても良いんだけれど、一番やりやすいから教員をやっているし、ほかの仕事があればそれでもまったくかまわない」というとても低い志のもとで再び教職に就いた。
別に、どうしても夢を諦めたくないとか、誰か(あるいは最初の勤務校)を見返したいとかそういう気持ちではなかった。

でも進路指導の仕事をしていると、普段、それほど学ぶことに熱心とは思えない生徒が進んで指導を頼みに来る。
そういった生徒はとても真剣で私自信も真面目に、真摯に指導しようと思える。
加えて、普段生徒をほめることってあまりなくて、それどころか怒っていることが多いので、生徒を心から褒めたり励ましたりすることができるのがとても嬉しくて、だから良いんだと思う。

思えば、自分の高校時代は毎日辛くて辛くてたまらず、それこそ仕事を辞めた前後よりも毎日死にたいと思ってばかりいて、そのとき一番悩んでいたのは進路のことだった。
私は四年制大学へ行くのが当然だと思ってこそいたものの、進路に悩む気持ちというのは誰しも多かれ少なかれ似通っていて、だからそういう点で少しでも高校生を救えたらと思っていたのだった。

もし進路指導部ではなかったら、学校を来訪するお客様の応対をして、いろいろな企業や学校のことを知ることもできなかっただろうし、こうして意欲のある生徒に気づくこともできなかった。
そうしたらきっといつまでも(言い方は悪いけれど)サラリーマン的に仕事をこなしていただけだったと思うし、本採用を目指そうとは思えなかったと思う。

分掌そうだし、部活動も私が好ましいと感じるタイプの生徒が多い部活で、自分も初心者なのに一緒にやらせてもらえたこと、私が今の勤務校に着任したときの教科の主任の先生が素晴らしい方だったこと、選抜メンバーの学年団に入れて、中でも本当に尊敬できる英語の先生が面倒を見てくださったこと、そういういろいろな幸運が重なって、私はやっぱり教員って自分に向いている面もあるなと思えるし、「やってて良かった」と感じられる機会の多い仕事だと思う。
だから、今年はもうどうなるか分からないけれど、来年は絶対、本採用を目指す。

8/03/2014

格好良すぎて言葉にできない

私が顧問をしている部活の部員たちは私にとって弟や妹なのか、あるいは息子、娘みたいなものなのか考えることがある。
部員はただの部員でなければならないわけであるのかもしれないけれども、1週間のうちほぼ毎日顔を合わせることもあり、接する時間も長くて、どうしても部活の生徒はほかの生徒と明確に違っていて特別な気持ちを抱いてしまう。
私が過剰に部員を意識してしまうように、たぶん部員も私を特別に意識しているなあと思うこともある。

そういう部員との関係というか距離感というか、なぜか言葉にしたいのに上手く言葉にできないことがあって、それは何かというとおそらく部長への思いなのではないかと思う。

部長がとにかく格好良い。

大雑把で素人の私でも分かるくらいその大雑把さがプレーにも表れていて(とはいえそこそこ上手なのだけれど)、でもその雑さこそが部員への指示の的確さにつながっているんだろうなあと思う。
私は何でも正確にやろうとして細かいことまで気を遣いすぎて、かえって複雑になってしまうことが多い。
でも、部長は本当に重要な大枠だけは押さえていて、あとのことはどうでも良いって思っていて、だから指示が上手いのだろう。
もちろん頭も悪くない、というか良い。
それからきちんとした後輩たちのことが大好きで、そういう後輩からも慕われている。
一方、同級生たちからは馬鹿だと思われているけれど、それは変に威張るようなこともないということで、だから上手く行っているのだろうと思う。
あとはとにかく部長として大切なのは声の大きさだと思うが、普段から特別目立って声が大きくてうるさい。

彼自身がいつもどんなときでもきちんとしているかというとそんなこともなくて、私の話をちゃんと聞いてくれなかったり、何回同じことを言ってもわからなかったり、服装がだらしなかったり、どうしょもないなと思うことも多々あった。
でも部員の悪いところは注意して、自分でも締めるべきところは締めて、顧問がいなかったときでももういいやって思って楽な方に逃げずに練習を続けてきたっていうのは本当にすごいことだし、私にはなかなかできないなっていつも考えている。

部長は馬鹿だけれど愚かではない。
部長だけでなく、ほかの部員もそれぞれ輝くところがたくさんあって、だから私はこの部活の顧問になれて本当に幸せだった。
これくらい素晴らしい高校生にこれから出会えることがあるのだろうか、このくらい時めくことがあるのだろうかと思うと不安にもなり、一方では今が一番幸せで、私の思い出の中でも最も輝いているんじゃないかとも感じ、そういう気持ちを抱けるような経験が出来たことを幸運だとも思う。
これでも上手く言いたいことを表現できなくて、私の言いたいことって結局何なのだろう。

5/25/2014

2014/05/24 荷物を預けて

久しぶりの部活だった。
たまにあることだけれど、生徒にきちんと時間を守ったりやるべきことをやらせたりすることを怠ってしまうことがある。
それは生徒がたまには遅刻してもいいやと考えるのと同じことであるから、自分は遅刻しないとしても、遅刻しているのと同じことじゃないかと思う。
4月の後半から私は部活を見ていただけで、ほとんどやっていなかったから、一緒にやるのは何だかんだ言っても1ヶ月ぶりだった。
最上級生はあと2ヶ月弱で引退で、私がいちばん目をかけているのが彼らだから、私としてはとても寂しい。
腹が立つことも多いけれど、結局それは自分が悪くて、もっと上手くコミュニケーションを取ることができれば良いのにと思う。
試験のこととも部活のことも、もっとほめても嘘じゃなかったのにと感じる。

午後は授業の準備をしていて、なかなか終わらなくて結局、4時過ぎまで残っていた。

それから10年前に解散したバンドのコピーバンドのライブへ行く。
渋谷のチェルシーホテルということろで、道に迷って迷って結局7時半から入った。

帰りは快速アーバンに乗りたかったのにギリギリ逃して悔しくて次の電車のグリーン車に乗る。
初めてだ。
タクシーに乗るくらいの感覚で乗れるから、もっと使っても大丈夫なのではないかとも思う。

授業の準備も始めるときりがないし、どうせなら自分が面白いと思うことを楽にやるのが良いんじゃないかと思う。

5/17/2014

もしも私に息子がいたら

もしも私に息子がいたら絶対に教えておきたいことがひとつあって、それは異性にモテない男は何をやってもダメだってことだ。

一番理解できないものは同世代の異性で、それは裏を返せば、同世代の異性と上手く付き合えるということはとてもコミュニケーション能力が高いということになる。
いわゆる「チャラい」というのは結局はコミュニケーション能力の高さに依るところが多くて、そこにチャラチャラした外見が加わったものであるし。

それではどうすればモテるかというと、まず第一に相手を好きになることだ。
それで相手の個人的ないろいろなことを忘れないで折に触れて話題にして、しつこくならない程度に気に掛ける。
結局それは同世代の異性だけでなく、ほかの人に対しても行った方がよいコミュニケーションの方法でもあり、同世代の異性に対してそれが適切にできればかなり応用が利くと思う。

たとえば女の子を振り向かせたかったら、「可愛いね」って言うんじゃなくて「髪型可愛いね」とか持ち物を褒めるとか、話を聞いてあげるとか、映画に誘って断られたらカフェに誘うとか、そういうテクニックも大事なのだけれど、それはまた別の話。

4/23/2014

最後に泣くこと

私が顧問をしている部活の大会が明後日ある。
明後日は自分の研修があるから引率することができなくて、それは本当に残念で、だから余計にドキドキするのかもしれない。
仕事なのだから、残念とかそういう問題ではないけれど。
土曜日にどんな顔をして生徒が来るのか、私はどんな顔をしていれば良いのか、全く分からないし考えてもどうすることもできない。
覇気がなくて弱気なことばかり言っていて、それも何とか直させたいところだけれどいまさら仕方ない。
それでも心の中では勝ちたいと思っているだろうし、勝つのが当然と思っている生徒もいるようだから、変なところで格好つけないで何回か勝って、負けたとき、最後に泣けるプレーをしてほしい。
どうしてかわからないけれど、とにかく私は自分の部活の生徒を心から愛してる。

3/30/2014

夢が夢でも張る予防線

自分のmixi日記を本の形に印刷してみて、ですます調だったりだである調だったり、内容も多方面に向けて書いているのでめちゃくちゃでとにかく愛嬌をふりまいて予防線を張っていて酷い。
それでもところどころ自分の今の文章や考え方と似通っているところがあるのが気持ち悪いし愛おしいし、それを愛おしいって思う気持ちも気持ち悪いけれど好きだ。



今でこそmixiは(おそらく)年齢制限もなく誰でも登録でき、mixi内のページが検索にも引っかかるオープンなものになったが、私が大学1年生のころ、大学に入学したころはmixiに登録するためには既にmixiに入会している友人に「招待」してもらわなければならなかった。

中学・高校とあまり人と関わらないように、深く関わって自分が傷つくことのないようにと思いながら生活して、でも大学ではなるべく人に協力しよう、つながるということに、と思ったから登録することにした。まだ眼鏡を掛けていて、アイラインを引く人は信用できないと思っていて、服だって母に選んでもらっていた私でもそのくらいは考えた。

それで、大学のクラスのリーダー的存在の上野くんに招待してもらって、それから毎日のようにmixiをチェックして、自分のことがどこかに書かれていないか、直接的にも間接的にも、どこかに自分が登場しているのではないかと探した。自分が日記を書いたりだれかの日記にコメントをしたりしたら、そこに返信がないかどうか、逐一パソコンを開いて確認した。それほど執着していたのに、あるとき、そうはいっても特別なきっかけがあったわけではないと思うけれど、私はぱったりとmixiを見るのをやめた。各方面に愛嬌をふりまきながら書く日記にも愛想が尽き始めたといえばまだ聞こえが良いが、単に、飽きてしまっただけなのだろうと思う。

3/27/2014

執着とは愛することであり憎むこと

恋人とは別れることにした。
好きでも嫌いでもない人とはやっぱり付き合えない。
別れたら私はめちゃくちゃになってしまうのではないかと思っていたがそんなことはなく、驚くくらい何とも思わない。
ずっと会えなくなるということを惜しいと思えなくて、だからやはり別れることにして良かったと思う。
この先誰にも恋せず、結婚できなかったら今のことを後悔するのだろうと思うけれど致し方ない。
だって本当に、好きだという気持ちを持てないのだから。

3/24/2014

心が羽みたい

私を愛してくれる恋人と別れることに決めたのに、全然悲しくもなく、悔しくもない私は薄情なのだろうか。
自分が心変わりしたことを寂しくは思うけれど、それは好きだった本や何かを嫌いになってしまうこと、その事柄自体を寂しく思うのと同じことだから、恋人との別れを寂しく思っているのとは違う。

これからずっと会えなくてもいいし、たぶん会ったとしてもそんなに気まずくはない。
お互いに好きだったはずなのに、それだけのつながりだったのだと思うと、それもまた寂しい。

私にとって彼は、たまに会って懐かしむのにはちょうど良いかもしれないけれど、恋人としてずっとつながっていることには耐えられない人だったのかもしれない。

このところ、いつもいつも、朝、歩きながら恋人といてもあまり楽しくも安心もしなくなってしまったことについて考えていた。
だからそれがなくなったおかげで心が軽くて良い気分だ。

3/17/2014

プレーンでフラットな恋人

恋人と1ヶ月ぶりに会った。
それまでは週に1度くらいのペースで会っていたのに、彼の仕事の都合でなかなか平日に会えなくなってからはずっと会っていなかった。

趣味が合わないっていうだけでなく、彼には特別に好きなものがあんまりないんだなって思った。
たぶん、ただ心穏やかに暮らせればいいんだと思う。
それが普通、世間一般の人で、私の身の回りには自分自身も含めてなにかに執着する人が多いだけなのかもしれない。
それでも私はそういう「執着」が好きなのに、彼は全然そういうのがなくて、はっきり言って話すことがないしつまらない。
話すことがないって珍しいことで、別に楽しくないから一緒に時間を共有するのが面白くない。
楽しくもないけれど苦痛っていうわけでもない。

別れたくないかもしれないという気持ちはある。
私を愛してくれているんだなあというのはとても感じるし、私が好きなものを好きになろうとしてくれているんだろうなというのもわかる。
私が求めているのは、私が好きなものを同じように好きになってくれる人じゃなくて、趣味があってベースに共通のものがあって、それで楽しい話ができて、お互いの知らないものを知ってより楽しいなって思える人だけれど、それが恋人である必要はなくて、友人のなかにはそういう人が何人かいるのだからそういうことができる人を恋人に持つことなんてないってわかっているけれど。

それから、私が心を開けるというのは特別なことなのかもしれないなとも思う。
でもそれで、心を開いてなんでもかんでも言ってしまうし、それで私は自分がとてもわがままでクズみたいな人間なんだって実感する。
今まで、自分自身は「わがまま」や「クズ」ということばとは無縁だと思いこんでいたのに。

今の私の心は車のギアでいうところのニュートラルの位置にあって、好きだと思えば好きだし、嫌いだと思えば嫌いだ。
少しでも別れたくないって思うなら別れない方がもちろん良いのだと思うけれど、別れたいとも思うし、率直に言えば、傷つけたいとも思っている。

一方で私は、自分の孤独が共有されそうになったらその人を嫌いになるのかもしれないから、このくらい執着がない人と付き合うのが合っているのかもしれないとも思う。
求めているものを手に入れようとして、それが実際に手に入ったら手放したくなって、一生ひとりなのかもしれなくて、だから私は自分が孤独だっていうことを認識して「地獄の水」を飲むようなことばかりしていてはいけない。

ともかくもう自分からメールするのはやめる。
こんなところで宣言しないといけないのは、やっぱり別れたくないのかもしれないけれど。

私はまだ子どもだから、極彩色の世界でめちゃくちゃに暴れ続けることに憧れている。

カフェビーンズ

 
 
北与野の書楽のところにある「カフェビーンズ」というところでワッフルのランチプレートを食べた。
2時半頃に行ったので空いており、ラップトップやポータブルテレビを持ち込んでいる人までいた。
新都心はこの時間でもどこも混んでいる。
味は特別美味しいというわけではなく値段相応かなと思ったけれど、サラダの量が多く、全体的にも意外とおなかがいっぱいになる量だった。
デザートとドリンクがセットで、ホットペッパーのクーポンを使って640円は私にはお得だった。
ドリンクが多くの種類の中から選べるのも良い。
また行きたいというわけではないが、新都心や北与野周辺で時間をつぶすには良いお店だと思う。

カフェビーンズ (Cafe Bean's)[食べログ]
http://s.tabelog.com/saitama/A1101/A110101/11004384/

3/14/2014

誕生日まで死にません

勤務校の卒業式だった。
舞台の袖で、自分のこの1年のことを思って涙ぐんだ。

卒業式まで死にません、南条あやの著書を思って4月にそう言った私は、結局、6月の誕生日の日を最後に出勤できなくなって仕事を辞めた。
秋に別の学校で働くことになり、そこで私は、前の仕事を辞めたというより、クビになったんだって気づいた。

でもこうして、入学式をした学校と卒業式をした学校は別でも、最後には帳尻を合わせて3学年の学年付きの教員として卒業式を迎えることができた。
私は本当に本当に、本当によくがんばったと思うし、それ以上に今の学校の先生方にお世話になって肯定していただいたことで、諦めることなく続けられたのだと思う。

あと2週間油断はできないし、次の4月からまた環境が変わるから、心穏やかにいられるかは分からない。
でも、ともかく次の1年はまず誕生日までつつがなくやりたい。

3/11/2014

付き合うより別れる方が難しいと知って大人になった

恋人と別れるかどうか迷っている。

私の今の恋人は私と正反対で、高所恐怖症で、辛いものが食べられなくて、保守的で、率直に言って刺激がない。
言っていることはいつも正論で、ソフトなタイプの自己啓発書みたいにきれいだと思う。
それは安心できるとも言えるのかもしれないし、結婚するなら最高なタイプだと思うけれど、それでも私は自分の友人と遊んだときのような突き抜けるような昂揚感を求めてしまう。
刺激がほしいなんて本当に子どもみたいだけれど。

話し方、ことばの選び方もちょっと嫌だなと感じる。
それは恋人だから意識しすぎてしまうのかもしれないけれど。
一人称が私の前では「自分」っていうのも気に入らない。
今まで本当に好きになった人たちはその話し方や声がぞくぞくするくらい好みで、思い返すだけで興奮するのに。

趣味だってかすりもしない。
私は好きなものを愛することでできているのに、私の恋人にはあまり好きなものがないみたい。
プレーンっていうことばが一番よく似合う。
私は好きな人の好きなものを好きになるのが得意だし、それもまた私の好きなことだけれど、それほど愛しているものはないようだからつまらない。

でもたぶん別れたら後悔すると思うし、べつにほかに好きなひとがいるっていうわけでもない。
でもでも、迷うくらいならこのまま付き合っていても相手に失礼だし、いずれは別れることになるんだから早く別れた方が良いのだろう、とも思う。

最初は本当に好きだった。
ちょうど恋人がほしいと思った頃にふたりきりで会うようになって、だからとりあえず付き合ったのだと思うようになるときが来るとしたらそれは間違いだ。
本当に好きで、でもどうしたらいいか分からなくて友人に相談したりして、上手くいって付き合うようになって、そのときは私たちふたりが恋人じゃなかったら世の中の全てが嘘だよねって思ったのに。
今だって恋人のことを傷つけたいなんて思っていない。
挫折を味わわせたいとは思ってしまうことがあるけれど。

こうやって恋人の嫌なところを書き記すことだってあんまり良くないことで、それは私の恋人が言いそうなこと。
でも誰にも言えないし、いつもいつも、朝2km歩いている間じゅう、こういうことを考えているもの辛い。

ホラー映画

ホラー映画って、人が恐怖を感じるというその感覚のスイッチを直接押さないといけないから、作るのがとても難しいだろうと考える。

3/10/2014

2013/3/10 勉強に目覚める

車で出勤するかどうするか少しだけ迷って、いつも通り電車で行くことにする。

朝、今日が友人の誕生日であることに気づいて急いでLINEのメッセージを送った。
もう小学5年生の頃からお誕生日を祝っているから10年以上になる。

職場では体調が悪い人がいつもより多く、なるべくそういう人と話をしないようにしたいと思った。

帰りがけにドラッグストアで買い物をする。
職場から駅へと歩く途中にあるドラッグストアだった。
途中下車して大学時代からポイントを貯めているマツキヨへ行くのが良いか、今日はポイント2倍のウエルシアへ行くのが良いかと迷ったが、来年度も同じところで働けることが決まったということもあり、ここのドラッグストアのポイントを貯めることにした。

このところ、ようやく勉強に弾みがついてきて、一方、恋人のことはやっぱりつまらない、けれども川越へ行って遊んだのは小旅行みたいで楽しかったななんて考える。

とても久しぶりにオンライン英会話をする。
夜9時に10時からの回を予約したかったので、自分がブックマークしている先生のなかにはあいている方がおらず、プロフィールも見ずに適当な新しい先生を予約した。
それでも今日は発音も直してくれる熱心な先生だったので運が良かった。

ピチカート・ファイヴの「誘惑について」を良い曲だなと気づく。

3/04/2014

続・こじらせ女子

磁石の中間: 好きなものについて考えることとこじらせ女子: 好きなものについて考えるとき、 それを好きじゃない人の視点を持ち込んだらきりがないし落ち込む しかないから、そんなのないふりをするのが良い。 でも、部外者の視点、とくに批判者の視点を無視できないで自ら苦しんでいるのがいわゆる「こじらせ女子」だと思っている。 たとえばCan...


以前、「こじらせ女子」ということばについての記事を書いた。
それからしばらくして、「こじらせ女子」とはつまり、他者の視点を内面化して苦しむということであると考えた。
中島敦の『山月記』に登場する李徴と同じで、他の人の視点を内面化し、勝手に気に病んでいるということで、それは一見良識があるように思えるけれどそうなのだろうか。

「別れようと思ったこと、あるの」

死にたいと思ったことあるって聞くのと同じくらいのカジュアルさで私と別れようと思ったことあるって聞きたくなっちゃうし、それを聞いてどうするの、私は別れようと思ったことあるよ、どうして、って考えてどうにもならないから自分を嫌う。

ことばに興味がない人はつまらないし、ことばに執着する人はことばへの思いと同じくらい自意識が強いし。

astigmatism stigmatism

astigmatism 乱視

stigmatism 正視

なくなればいいのに

大多数の人がそれに(しぶしぶながらも)賛同しているものに対して、「〜なんてなくなればいいのに」って言っている人たちに、あなたがなくなるほうがずっと簡単ですよ、と教えてさしあげたいけど、まあさすがの私でもそこまではしない。

2/18/2014

相手への気持ち

恋人が言っていたように、自分が誰かに対して抱いている気持ちはその人が自分へ抱いている気持ちと同じであるとしたら、恋人は私から気持ちが離れ、私を心底つまらないと思いつつあって迷っている。
そして恋人はいつもおおよそ正しい。

元カレの名前

以前、職場の人が「元カレの名前なんか忘れるけど、教え子のことはわりと覚えている。」と言ったのを聞いて、さすがにそれはないと思ったのだけど、高校のときすごく好きだったクラスメイトの名前をどう頑張っても苗字しか思い出せなくて、そういうこともあるかもしれないなと思っている。

教材研究に掛ける時間

教育実習のときはとことん教材研究をして、指導案も書いて授業をした。
でも、実際に教員になると、とにかく削らなくてはならないのが教材研究の時間で、教材研究ができないことによって授業への不安が出る。
だから教材研究に時間を掛けずにそこそこ良い授業をする力を磨くことの方が大切だと思う。
じっくりと教材研究をすること、手早く最低限の教材研究をすること、どちらもできるようにするのが理想で、それはしかるべきときに経験しておく必要があることだと思う。

2/11/2014

生きている実感 幸せの実感

恋人に会うと幸せになる。
それは急速な幸福感ではなくて、あーしあわせだ、わたしは、って実感できるような緩やかな幸せで不思議だ。

趣味もそんなに合わないし、恋人の話し方とか語彙とか、率直に言ってそんなに好きじゃないし、特別恋人に話したいっていうこともあまりないし、つまらないことばかり言ってしまうし、それなのに何だか好きだ。
こういうのは別れたくなったときに目につくところになってしまうのだろうけれど。

つまらないことや自分が嫌だなと思うことを言ってしまったり愛想良くできなかったりするのは、あんまり安心しきってしまっている証拠かもしれない。

そこにあるのが当たり前の幸せになってしまっていて、見捨てられることの恐ろしさを忘れてしまい傲慢に振る舞いがちだけど、それに気づく今の心を本人の前でも発揮できるようになりたい。

趣味が合わなくても普通に話が通じるというのは実は意外と難しいことだし(大学を出ていろいろな生活環境の人に出会うことでそれに気づく)、精神が不安定で本当は内省的な私に優しくしてくれて、大切だと思ってくれる人たちは本当に得がたくて、素晴らしい今だということを忘れないでいたい。

2/02/2014

「食と農」の博物館

「食と農」の博物館で、企画展示「樹木の形の不思議」と常設展を見てきた。
カメレオンやキツネザルのいる植物園が良かった。

病気にかかった樹木や別の蔓が巻きついた樹木の様子、とくに、蔓に巻きつかれたらまずははねつけて、それがダメなら絞めつけて壊死させるというのがとても気になった。
節や幹なども、ただ勝手に成長しているわけではなく、形に応じていろいろな物質の作用で変わってゆくのがわかった。
人間の体も同じようなもので、自分でもわからないうちに、内側の物質や外からのウイルス一つひとつが確実に作用し、体に異変が起こったり、反対に悪いところが治ったりするのだろうと考えた。

常設の鶏の剥製の中にはとても大きな鶏もいて、剥製はあまり好きではないけれど美しく立派な鶏だと思った。
ふさふさの尻尾の鶏は、こんなのを飼っている人がいたらその人をとっても偉い人だと思ってしまうかもしれない、と思った。

2/01/2014

2014/1/31 達成感

試験を採点して解答を印刷して、試験は返却して訂正の受け付けを終了するまで油断できない。
それが終わってとてもほっとしている。
前日に10時まで残って良かったと思う。

そのあと、バンドの発表があった。
私はキーボードを担当した。
イントロやアウトロがソロのパートなのでそこだけは間違えないように、と思っていて、練習ではほとんど間違えないのにリハーサル形式で練習するとなぜか間違ってしまうのでとても心配だった。
でも結局は多少ミスタッチしただけでほとんど大丈夫だった。
友人に教えてもらったグリッサンドのところも生徒から格好良かったって言ってもらえたし、部活の子にも似合ってたって言ってもらえて嬉しかった。
途中で顔を上げる余裕もあって、まるで映画で見るような、バンドの演奏シーンでバンドの側から取った眩しいような映像そのままだった。
とても楽しくて、あんまり鍵盤上手くないからってできないできないって断ってしまわず、参加させていただいて本当に良かったなと思う。

忘れたくない達成感だった。

帰りには大学のゼミで一緒だった友人と偶然に電車の中で会い、それもまたとっても嬉しかった。
クリームパンまでもらった。

この前のおみくじのことと、クラフト・エヴィング商會の展示と、今年に入ってからの額に入れておきたい出来事がまた一つ増えた。

俳句の評論の授業についての所感

今期の俳句の評論の授業では、詩歌というものがどんなものであるか少しでも伝えられていたら良いなと思う。

正確には私が詩歌をどのように考えているかで、それは結局のところ自己満足なのかもしれないけれど、入試の対策にこだわらなくて良く、かつ自分の好きにやって良い今の状況だからこそできることだから、それはそれで悪くないのだと思いたい。

「短い言葉なのに、少し言葉を変えるだけで全く意味が変わることが分かった」というコメントをくれた人も数名おり、それが理解してもらえただけでも良かった。

何より嬉しかったのは、「きちんと伝わるように言葉を使いたい」というコメントを書いていた人がいたことで、それは私が、文学も言葉も自分の伝えたいことをいかに上手く伝え、相手に理解してもらえるかだと考えていて、だから学校教育おいては特にコミュニケーションの問題に行き着くと思っているから。

私が今回の授業で伝えたかったことは3点あった。

1つめは言葉には特定のイメージがあるということ。

これは詩語(たとえば「一月」のような一見、何の変哲もなくただの記号、あるいは数字でしかないようなもの)を別の言葉と比較して気付かせようとした。

2つめは季節それ自体にも特定のイメージがあり、それが季節の言葉に反映されていること。

こちらは、実際には上手く伝えられなかったけれど、秋の季語(伝統的なものを想像させるためにわざと「季語っぽいもの」と言った)には「悲秋」のイメージが染みついていることを示した。

3つめは「切れ字」の効果で、間がゼロと同じ「無の存在をしめすもの」であることを話し、また、切れ字のない句に作り変えてもとの句とイメージがどのように変わるかを考えてもらった。


最後の授業では先日放送された夏井いつき先生の出演する「プレバト!」というバラエティ番組を見せて、これらのことを復習しようとした。

特に、普段の授業では大傑作しか紹介せず、ダメな句を知る機会がなかったから、その傑作さ加減が分からない人がほとんどだと思うけれど、この番組で完全にダメな句をいくつか見られて、また、それをどのように改めることができるのかを見られて、言葉の力や「切れ」がある句とない句の違いというのが分かってもらえたのではないだろうか。


また、この授業を通して自分自身でも大きな発見があり、それは俳句の成立についてだった。

2回に1回くらい書いてもらっているコメントシートに、なんで俳句なんか作るのだ(俳句なんて作る意味がない)と書いてきた子がいて、私がそれで考えた。

自分でも俳句を作る意味は疑問に思っていたのだけど、今回の教材研究の過程で気づいたのは、伝統に基づく和歌・連歌では叙述することのできないものを俳句(連句や連句の発句)では表現することができるということだった。

このことを考えると、俳句とは自分の思いを強く反映して世界を切り取るための手段であり、俳句の発明は誰もが気負いなく、世界を切り取ることができる便利で、しかし奥が深い道具だったのだろうと思う。


たった1カ月間の授業で、しかも勉強に興味がない人たちばかりのクラスでの授業でどのくらい俳句に興味を持ってもらえたかは分からないし、自分自身でも授業自体はあまり面白さを伝えられるものではなかったかもしれないと思っている。

でも、いつか何かのきっかけで自分から俳句に興味を持つ人がいて、そのときに今回の授業を少しでも思い出してくれて、詩歌がどういうものであるかを改めて考えてくれたらとても良い仕事ができたことになると思う。

1/23/2014

コメントシートのメリット・デメリット

授業ごとにコメントのシートを書かせ、回収し て自分もコメントを返すようにして良かった点

・自分が生徒の名前をすぐに覚えられる。

・平常点がつけやすい。

・継続的に正しい質問を提示してゆけば書く力が身につく。

・それぞれがどのような意見を持っているのか がよくわかる。

・意見はあってもそれを書く力がないというこ とに気づける。

・ただノートを取るだけの授業になりづらい。

・余裕を持って授業ができる。(時間がなければコメントを書く時間をカットすれば良いから。)



良くない点

・チェックに時間がかかる。

・有意義でない質問の場合、授業の時間もチェックの時間も無駄になる。

1/16/2014

口内炎は自分の心身である証

口内炎が口の中に10個くらいできて日常生活に支障をきたす。
歯茎、唇の裏、舌先全体が痛くてたまらず、何もしなくても痛い。

思い当たることはなかったのだけど、Twitterを見返してよくよく考えてみると、年末あたりから何となく憂鬱な日はあったけど、1月12日くらいから憂鬱感が際立ってきていた。
それでも13日の午前中、仕事をしているときはなんともなかった。
13日は半日の仕事を終えて帰って来たら家族に腹が立って目の前が真っ暗になってどうしようもなくなったので、恋人と会う大切な約束をお断りして夜まで昏々と眠った。
それからだいぶ気持ちも晴れてきたのだけど、まさに口内炎が爆発したのはその翌日だった。

結局、鬱大爆発の理由は分からないけれど、心身が連携しているというのは悪くないことだと思う。

1/12/2014

うさぎスマッシュ展 東京都現代美術館

・動物を人工透析や人工肺として利用する装置

「実際にあったらヤバい」というのをまず初めに思った。
しかし、どうしてそれがいけないことなのだろうかとも思う。
動物が医療のための実験に使われること、薬の原材料とされることには抵抗がないのに、どうして直接の道具にするのはダメなのだろう。

・一人ずつしか入れない部屋
一緒に行った人はただ天井が映っているとしか思っていなかったそう。
見えるはずの当たり前の世界が歪むということ、それは私にとってとてもわくわくすることだったのだけれど、そういうことを共有できないのは少し寂しいようにも思う。


・女の人の顔がついた丸太にうさぎが腰かけている

・スプツニ子!さんの月にハイヒールの足跡を付ける作品

・東京のにおいを採集

・交差する鏡の庭

・放水車のダンス

恋人へ送信されなかったメールとそのほか

そんなに疲れてはいないはずだったのに、相変わらず帰ってきていつのまにか眠ってしまった。
早くリズムを取り戻さないと、と思う。

最近、なんとなく睡眠不足でネガティブな気持ちで、あらゆる人を嫌いになりそうで余計に悲しい。

自分がいわゆる「メンヘラ体質」であるということを恋人に打ち明けて良いのか、それは自然と悟ってもらえば良いだけのことなのではないかと悩む。
そして6月頃の鬱病のせいで慢性的に軽い憂鬱感に襲われてどうしようもなくなるようになってしまったのではないか、あるいは自分がただ甘いだけなのではないか、もうどうした良いのか分からない。

そして精神的な病にかかりやすい自分を理解してもらえないなら、そのせいでならフラれても良いと思っているということに対しても嫌だと思う。

私の身の回りには精神を病んでいる人が極端に多く、自分自身はそうではないから、精神を病んでいる人を引き付けやすいたちなのだと思っていた。
でもそれは違っていて、ただ私に精神的に病んでしまいやすい部分があり、そこを敏感に察知して引き付けられてしまう人たちがいるのだと気づいてしまった。
この思考ですらもただネガティブがこじつけであることには気づいているのだけれど。

孤立感

他者から愛されていると感じ、相手が私のことを理解している、お互いに分かり合えると強く思っていれば思っているほど私は孤立感にとらわれる。

1/03/2014

可視的ラッキーガール

初詣のおみくじで大吉を引いた。
もちろん大吉というだけでも嬉しいのだけれど、何が出ると思うか尋ねられ、私は大吉と答え、それで本当に大吉だったことが嬉しい。
我ながら、なんと言うべきか、男前だと思う。
おみくじなんてどうでも良いと思ってなぜか必要以上に冷めてしまうのだけれど、今日は思いのほか嬉しい気持ちになった。
ちなみに一緒に行った人は吉だった。

昨年の11月に同じ人と浅草寺へ行った。
おみくじが辛口なことで有名な浅草寺でも、私は大吉で一緒に行った人は半吉だった。
その人の前でまたラッキーガールぶりを発揮できたこともとても嬉しい。
自分自身は本当に運が良いと思っていて、それは別におみくじとか福引きで良いものが引けるという意味ではなく、人生のここぞというときにとてもついているということなのだけれど、ともかくそれを証明するのは難しいので、おみくじによって可視化できたのはとても良いことだと思う。

そして良くも悪くも波のあるのが私が大吉で、いつも着々と平坦の一緒に行った人が吉というのも私たちらしくてとても良い。

これはとっても幸せな気持ちになれる、額に入れて飾っておきたいエピソードだと思っている。

1/02/2014

男女を愛すること

異性を愛する自分と同性を愛する自分は、教職に就いている自分とそうでない自分のようにまさしく対称的であることに気づいた。
以前は、異性にも同性にも"同様に"恋してしまうのが自分であると思っていた。

別の言い方をすれば、私にとっての異性愛は理性で、同性愛は感情である。
私は絶対に子どもを産み育てたいから、同性である女性と一生お付き合いすることはできなくて、自分の年齢を鑑みてももう遊びで交際する猶予はないから、結婚を含めた社会的な秩序のもとで私は男性とお付き合しないと自分の望みが叶わない。
そして、そういう、結婚などを含めた理性的な(悪く言えば打算的な、でも愛し合うことの究極の形が結婚というわけではなくて、結婚には多かれ少なかれ打算が必要だから仕方のないこと)「恋愛」がいけないとか、美しくないとか、そんなことを言いたいわけでは全くない。

一方、同性愛に関して言えば、恋人の女性になら首絞められたい(決して死にたいわけではない)と思っているけれど、そういうのも感情や嗜好という理性や社会性の反対にあるものだと思う。
もちろん、マゾヒスティックな欲望を満たすために女性とお付き合いしたいわけではないし、男性によっては満たされない様々な種類の欲求を満たすことができるとも思っている。
それを打算的だと呼ぶ人もあるかもしれない。
また女性と交際する場合にとても良いと思うのは、例えば「プロポーズは男性から」「男性が後ろから抱きしめるのはアリだけどその逆はない」というような世間一般のいわゆる「恋愛のルール」に縛られる必要がないことで、私は別に異性と交際するにあたってもそれをうっとうしいと思っているわけではないけれど、自分のしていることがルールに則っているのかどうかくらいは気にしていて、それはあまりにも優等生らしくて気詰まりだとたびたび感じる。

さて話は最初に戻って、多分に良識が求められる教職と、そうでない無職あるいは別の仕事、社会的、世間的にはそうであるそれらの属性のうち、前者は誉められ、後者は排除される。
でも私にとってはたやすく相互に入れ替わるものである。