1/02/2014

男女を愛すること

異性を愛する自分と同性を愛する自分は、教職に就いている自分とそうでない自分のようにまさしく対称的であることに気づいた。
以前は、異性にも同性にも"同様に"恋してしまうのが自分であると思っていた。

別の言い方をすれば、私にとっての異性愛は理性で、同性愛は感情である。
私は絶対に子どもを産み育てたいから、同性である女性と一生お付き合いすることはできなくて、自分の年齢を鑑みてももう遊びで交際する猶予はないから、結婚を含めた社会的な秩序のもとで私は男性とお付き合しないと自分の望みが叶わない。
そして、そういう、結婚などを含めた理性的な(悪く言えば打算的な、でも愛し合うことの究極の形が結婚というわけではなくて、結婚には多かれ少なかれ打算が必要だから仕方のないこと)「恋愛」がいけないとか、美しくないとか、そんなことを言いたいわけでは全くない。

一方、同性愛に関して言えば、恋人の女性になら首絞められたい(決して死にたいわけではない)と思っているけれど、そういうのも感情や嗜好という理性や社会性の反対にあるものだと思う。
もちろん、マゾヒスティックな欲望を満たすために女性とお付き合いしたいわけではないし、男性によっては満たされない様々な種類の欲求を満たすことができるとも思っている。
それを打算的だと呼ぶ人もあるかもしれない。
また女性と交際する場合にとても良いと思うのは、例えば「プロポーズは男性から」「男性が後ろから抱きしめるのはアリだけどその逆はない」というような世間一般のいわゆる「恋愛のルール」に縛られる必要がないことで、私は別に異性と交際するにあたってもそれをうっとうしいと思っているわけではないけれど、自分のしていることがルールに則っているのかどうかくらいは気にしていて、それはあまりにも優等生らしくて気詰まりだとたびたび感じる。

さて話は最初に戻って、多分に良識が求められる教職と、そうでない無職あるいは別の仕事、社会的、世間的にはそうであるそれらの属性のうち、前者は誉められ、後者は排除される。
でも私にとってはたやすく相互に入れ替わるものである。

0 件のコメント:

コメントを投稿