2/18/2014

相手への気持ち

恋人が言っていたように、自分が誰かに対して抱いている気持ちはその人が自分へ抱いている気持ちと同じであるとしたら、恋人は私から気持ちが離れ、私を心底つまらないと思いつつあって迷っている。
そして恋人はいつもおおよそ正しい。

元カレの名前

以前、職場の人が「元カレの名前なんか忘れるけど、教え子のことはわりと覚えている。」と言ったのを聞いて、さすがにそれはないと思ったのだけど、高校のときすごく好きだったクラスメイトの名前をどう頑張っても苗字しか思い出せなくて、そういうこともあるかもしれないなと思っている。

教材研究に掛ける時間

教育実習のときはとことん教材研究をして、指導案も書いて授業をした。
でも、実際に教員になると、とにかく削らなくてはならないのが教材研究の時間で、教材研究ができないことによって授業への不安が出る。
だから教材研究に時間を掛けずにそこそこ良い授業をする力を磨くことの方が大切だと思う。
じっくりと教材研究をすること、手早く最低限の教材研究をすること、どちらもできるようにするのが理想で、それはしかるべきときに経験しておく必要があることだと思う。

2/11/2014

生きている実感 幸せの実感

恋人に会うと幸せになる。
それは急速な幸福感ではなくて、あーしあわせだ、わたしは、って実感できるような緩やかな幸せで不思議だ。

趣味もそんなに合わないし、恋人の話し方とか語彙とか、率直に言ってそんなに好きじゃないし、特別恋人に話したいっていうこともあまりないし、つまらないことばかり言ってしまうし、それなのに何だか好きだ。
こういうのは別れたくなったときに目につくところになってしまうのだろうけれど。

つまらないことや自分が嫌だなと思うことを言ってしまったり愛想良くできなかったりするのは、あんまり安心しきってしまっている証拠かもしれない。

そこにあるのが当たり前の幸せになってしまっていて、見捨てられることの恐ろしさを忘れてしまい傲慢に振る舞いがちだけど、それに気づく今の心を本人の前でも発揮できるようになりたい。

趣味が合わなくても普通に話が通じるというのは実は意外と難しいことだし(大学を出ていろいろな生活環境の人に出会うことでそれに気づく)、精神が不安定で本当は内省的な私に優しくしてくれて、大切だと思ってくれる人たちは本当に得がたくて、素晴らしい今だということを忘れないでいたい。

2/02/2014

「食と農」の博物館

「食と農」の博物館で、企画展示「樹木の形の不思議」と常設展を見てきた。
カメレオンやキツネザルのいる植物園が良かった。

病気にかかった樹木や別の蔓が巻きついた樹木の様子、とくに、蔓に巻きつかれたらまずははねつけて、それがダメなら絞めつけて壊死させるというのがとても気になった。
節や幹なども、ただ勝手に成長しているわけではなく、形に応じていろいろな物質の作用で変わってゆくのがわかった。
人間の体も同じようなもので、自分でもわからないうちに、内側の物質や外からのウイルス一つひとつが確実に作用し、体に異変が起こったり、反対に悪いところが治ったりするのだろうと考えた。

常設の鶏の剥製の中にはとても大きな鶏もいて、剥製はあまり好きではないけれど美しく立派な鶏だと思った。
ふさふさの尻尾の鶏は、こんなのを飼っている人がいたらその人をとっても偉い人だと思ってしまうかもしれない、と思った。

2/01/2014

2014/1/31 達成感

試験を採点して解答を印刷して、試験は返却して訂正の受け付けを終了するまで油断できない。
それが終わってとてもほっとしている。
前日に10時まで残って良かったと思う。

そのあと、バンドの発表があった。
私はキーボードを担当した。
イントロやアウトロがソロのパートなのでそこだけは間違えないように、と思っていて、練習ではほとんど間違えないのにリハーサル形式で練習するとなぜか間違ってしまうのでとても心配だった。
でも結局は多少ミスタッチしただけでほとんど大丈夫だった。
友人に教えてもらったグリッサンドのところも生徒から格好良かったって言ってもらえたし、部活の子にも似合ってたって言ってもらえて嬉しかった。
途中で顔を上げる余裕もあって、まるで映画で見るような、バンドの演奏シーンでバンドの側から取った眩しいような映像そのままだった。
とても楽しくて、あんまり鍵盤上手くないからってできないできないって断ってしまわず、参加させていただいて本当に良かったなと思う。

忘れたくない達成感だった。

帰りには大学のゼミで一緒だった友人と偶然に電車の中で会い、それもまたとっても嬉しかった。
クリームパンまでもらった。

この前のおみくじのことと、クラフト・エヴィング商會の展示と、今年に入ってからの額に入れておきたい出来事がまた一つ増えた。

俳句の評論の授業についての所感

今期の俳句の評論の授業では、詩歌というものがどんなものであるか少しでも伝えられていたら良いなと思う。

正確には私が詩歌をどのように考えているかで、それは結局のところ自己満足なのかもしれないけれど、入試の対策にこだわらなくて良く、かつ自分の好きにやって良い今の状況だからこそできることだから、それはそれで悪くないのだと思いたい。

「短い言葉なのに、少し言葉を変えるだけで全く意味が変わることが分かった」というコメントをくれた人も数名おり、それが理解してもらえただけでも良かった。

何より嬉しかったのは、「きちんと伝わるように言葉を使いたい」というコメントを書いていた人がいたことで、それは私が、文学も言葉も自分の伝えたいことをいかに上手く伝え、相手に理解してもらえるかだと考えていて、だから学校教育おいては特にコミュニケーションの問題に行き着くと思っているから。

私が今回の授業で伝えたかったことは3点あった。

1つめは言葉には特定のイメージがあるということ。

これは詩語(たとえば「一月」のような一見、何の変哲もなくただの記号、あるいは数字でしかないようなもの)を別の言葉と比較して気付かせようとした。

2つめは季節それ自体にも特定のイメージがあり、それが季節の言葉に反映されていること。

こちらは、実際には上手く伝えられなかったけれど、秋の季語(伝統的なものを想像させるためにわざと「季語っぽいもの」と言った)には「悲秋」のイメージが染みついていることを示した。

3つめは「切れ字」の効果で、間がゼロと同じ「無の存在をしめすもの」であることを話し、また、切れ字のない句に作り変えてもとの句とイメージがどのように変わるかを考えてもらった。


最後の授業では先日放送された夏井いつき先生の出演する「プレバト!」というバラエティ番組を見せて、これらのことを復習しようとした。

特に、普段の授業では大傑作しか紹介せず、ダメな句を知る機会がなかったから、その傑作さ加減が分からない人がほとんどだと思うけれど、この番組で完全にダメな句をいくつか見られて、また、それをどのように改めることができるのかを見られて、言葉の力や「切れ」がある句とない句の違いというのが分かってもらえたのではないだろうか。


また、この授業を通して自分自身でも大きな発見があり、それは俳句の成立についてだった。

2回に1回くらい書いてもらっているコメントシートに、なんで俳句なんか作るのだ(俳句なんて作る意味がない)と書いてきた子がいて、私がそれで考えた。

自分でも俳句を作る意味は疑問に思っていたのだけど、今回の教材研究の過程で気づいたのは、伝統に基づく和歌・連歌では叙述することのできないものを俳句(連句や連句の発句)では表現することができるということだった。

このことを考えると、俳句とは自分の思いを強く反映して世界を切り取るための手段であり、俳句の発明は誰もが気負いなく、世界を切り取ることができる便利で、しかし奥が深い道具だったのだろうと思う。


たった1カ月間の授業で、しかも勉強に興味がない人たちばかりのクラスでの授業でどのくらい俳句に興味を持ってもらえたかは分からないし、自分自身でも授業自体はあまり面白さを伝えられるものではなかったかもしれないと思っている。

でも、いつか何かのきっかけで自分から俳句に興味を持つ人がいて、そのときに今回の授業を少しでも思い出してくれて、詩歌がどういうものであるかを改めて考えてくれたらとても良い仕事ができたことになると思う。