2/01/2014

俳句の評論の授業についての所感

今期の俳句の評論の授業では、詩歌というものがどんなものであるか少しでも伝えられていたら良いなと思う。

正確には私が詩歌をどのように考えているかで、それは結局のところ自己満足なのかもしれないけれど、入試の対策にこだわらなくて良く、かつ自分の好きにやって良い今の状況だからこそできることだから、それはそれで悪くないのだと思いたい。

「短い言葉なのに、少し言葉を変えるだけで全く意味が変わることが分かった」というコメントをくれた人も数名おり、それが理解してもらえただけでも良かった。

何より嬉しかったのは、「きちんと伝わるように言葉を使いたい」というコメントを書いていた人がいたことで、それは私が、文学も言葉も自分の伝えたいことをいかに上手く伝え、相手に理解してもらえるかだと考えていて、だから学校教育おいては特にコミュニケーションの問題に行き着くと思っているから。

私が今回の授業で伝えたかったことは3点あった。

1つめは言葉には特定のイメージがあるということ。

これは詩語(たとえば「一月」のような一見、何の変哲もなくただの記号、あるいは数字でしかないようなもの)を別の言葉と比較して気付かせようとした。

2つめは季節それ自体にも特定のイメージがあり、それが季節の言葉に反映されていること。

こちらは、実際には上手く伝えられなかったけれど、秋の季語(伝統的なものを想像させるためにわざと「季語っぽいもの」と言った)には「悲秋」のイメージが染みついていることを示した。

3つめは「切れ字」の効果で、間がゼロと同じ「無の存在をしめすもの」であることを話し、また、切れ字のない句に作り変えてもとの句とイメージがどのように変わるかを考えてもらった。


最後の授業では先日放送された夏井いつき先生の出演する「プレバト!」というバラエティ番組を見せて、これらのことを復習しようとした。

特に、普段の授業では大傑作しか紹介せず、ダメな句を知る機会がなかったから、その傑作さ加減が分からない人がほとんどだと思うけれど、この番組で完全にダメな句をいくつか見られて、また、それをどのように改めることができるのかを見られて、言葉の力や「切れ」がある句とない句の違いというのが分かってもらえたのではないだろうか。


また、この授業を通して自分自身でも大きな発見があり、それは俳句の成立についてだった。

2回に1回くらい書いてもらっているコメントシートに、なんで俳句なんか作るのだ(俳句なんて作る意味がない)と書いてきた子がいて、私がそれで考えた。

自分でも俳句を作る意味は疑問に思っていたのだけど、今回の教材研究の過程で気づいたのは、伝統に基づく和歌・連歌では叙述することのできないものを俳句(連句や連句の発句)では表現することができるということだった。

このことを考えると、俳句とは自分の思いを強く反映して世界を切り取るための手段であり、俳句の発明は誰もが気負いなく、世界を切り取ることができる便利で、しかし奥が深い道具だったのだろうと思う。


たった1カ月間の授業で、しかも勉強に興味がない人たちばかりのクラスでの授業でどのくらい俳句に興味を持ってもらえたかは分からないし、自分自身でも授業自体はあまり面白さを伝えられるものではなかったかもしれないと思っている。

でも、いつか何かのきっかけで自分から俳句に興味を持つ人がいて、そのときに今回の授業を少しでも思い出してくれて、詩歌がどういうものであるかを改めて考えてくれたらとても良い仕事ができたことになると思う。

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