11/07/2010

言葉を定義するということ

「宇多田ヒカルの作詞は純文学だ」という話を聞いて、「純文学の定義って何だろう」と考えた。
宇多田ヒカルの作った曲の歌詞は本当に純文学なのか、そもそも純文学の作品とは何を指すのだろう、そのようなことを考えて、語義ありきで言葉が存在するわけではないことに、はっと気づいた。

言葉というのはもともと語義が与えられていてそこに具体的な事物を当てはめているわけではない。
辞書に載せられている語義は、人々がある言葉を使っている具体例を集めて、そこから共通項を抽出して書かれたものである。
ある言葉に絶対の定義を与えるなら、すべての用例を抽出して、それを分析しなければならないと思う。
ただ、共通項を探す段階で既に個々の考え方の違いが介入してしまうことを考えれば、語義も一つの解釈であるといえるかもしれず、どんなことをしようとも「絶対の定義」を与えるのは不可能なのかもしれない。

高校までの学校教育でも、辞書で語義を調べて、その語義を覚えることが求められていた。
たしかに、言葉の意味を覚えないことには、自分の語彙にない言葉で書かれた文章を読むことが難しい。
それでも、様々な文章の中で知らなかった言葉に何度も出会い、その言葉が文章の中でどのように用いられることを感じることで、言葉を覚えてゆくのが理想である。
実際、幼児は辞書を引いて語義を覚えるわけではなく、日常の中で同じ言葉に何度も触れることでその使い方を習得している。
なるべくなら、幼児が言葉を覚えるときと同じように、実際に使われている言葉に接することで、語彙を増やしてゆきたい。

情報が言葉を決めるのではなく、言葉を使う人がどう言葉を用いるかによって、言葉がどのようなものであるかは決められるのであると思う。

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